5月26日の「消えた天才」で、元巨人の桑田真澄さんが憧れ続けたPL学園の1歳上のピッチャーが紹介されるようです。

 

その天才投手は、大学進学後に、ある悲劇で野球界から姿を消したそうですが、その天才って誰なんでしょうね。

 

気になったので調べてみました。

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元巨人の桑田真澄さんが憧れ続けたPL学園の天才投手とは?

元巨人の桑田真澄さんが憧れ続けたPL学園の天才投手とは、清水哲さんのようですね。

 

清水哲さんは、桑田真澄さんのPL学園の1年先輩で、甲子園春・夏の大会で準優勝した時のメンバーです。

 

しかし、PL学園を卒業した後、同志社大学に入学していますが、あることがきっかけで中途退学しています。

清水哲さんのプロフィール

清水哲さんは、1966年4月9日生まれ。

 

大阪府守口市出身。

 

守口市立八雲小学校時代は、父親が監督を務める守口セネタースでプレーし、小学校6年生で最速125キロをマークしています。

 

小学校卒業後は守口市立八曇中学校に進み、準硬式野球大阪府下大会で二年連続優勝投手という輝かしい実績を持っています。

 

そして、中学校卒業後にPL学園に進学!

 

高校3年生の時に、春の選抜大会ではサードとして出場し準優勝しましたが、夏の甲子園大会では控えとなっていました。

 

しかし、代打での成績が良かったため、決勝の取手二高戦では先発で起用され、9回に同点本塁打を放つ活躍を見せています。

 

結局、その決勝戦は取手二高に延長戦で敗れてしまいましたが、清水哲さんは甲子園大会での活躍が認められ、日本高校野球選抜に選ばれ、日韓親善試合の韓国遠征メンバーに名を連ねています。

 

清水哲さんは、PL学園卒業後は同志社大学文学部に進み、大学でも野球部に所属していました。

 

そんな清水哲さんに不幸なことが起こります。

 

それは、1年秋のリーグ戦の近畿大学戦で、清水哲さんは2番レフトで先発で出場していた時のことです。

 

5回裏に2アウト後にフォアボールを選んで出塁した清水哲さんは、次の打者のボールカウントが、2ストライク1ボールの時にベンチからヒットエンドランのサインが出たように感じたそうです。

 

このため、スタートを切り、二塁へヘッドスライディングしますが、バッターが見送っていたため、サインミス?と余計なことを考えていたため、スライディングのタイミングが遅れてしまったそうです。

 

このヘッドスライディングが原因となり、相手のショートと激突し、清水哲さんは首の骨を折るという大怪我に襲われてしまいました!

 

幸い、近畿大学付属病院救命センターでの手術により、一命は取り留めますが、頚髄損傷により、清水哲さんは医師から一生寝たきりの生活になるといわれてしまいます。

主治医「今の医学では治すことができない。一生寝たきりの生活になります…。」
…当時,自分は19歳だった。「…なんで,俺だけがこんな目にあわんとあかんの?」「俺,何か悪いことしたか?」「世の中にもっと悪い奴いっぱいいるのに,何で俺だけがこんなつらい目にあわんとあかんの?」
…「生きることは苦しむことや…。」何にもできんのやったら生きててもしょうがない。苦しいだけやったら死ぬしかない。いかに楽に死ねるかを考えた。薬?首吊り?飛び降り?…しかし,自分で死ぬことすらできない。できるのは泣くことだけ。泣いて治るんだったら,とっくに治っているだろうというくらい泣いた。

出典 「生きる勇気をありがとう」清水哲氏の講演から

 

その後、清水哲さんは周囲の励ましなどにより、リハビリを始め、電動車いすの操作ができるようになりました。

清水哲さんの現在は?

清水哲さんは、退院後、自宅療養をしていましたが、父親が脳梗塞で倒れたため、母親が父親の看病をすることになったため、病院を転々としながら一人暮らしをしていました。

 

しかし、その後、結婚しているそうです。

 

現在は、講演活動や父親が監督を務めていた守口セネタースの指導をしているそうです。

 

また、口にくわえたスティックでパソコンを使って書き上げたという「桑田よ清原よ生きる勇気をありがとう」はベストセラーとなっています。

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清水哲さんは結婚している?

清水哲さんは、ホームヘルパーをしていた由美子さんと2001年1月に結婚しています。

妻との出会いは、私が一人暮らしをして3年ぐらいたった時に彼女がホームヘルパーさんとして派遣されてきました。

そのころのホームヘルパーさんは、私の母に近い年齢の方が多く、そういう中で彼女は比較的他のヘルパーさんよりも若く、それに、たまたまガイドヘルパーさんを探していたのですが、彼女の空いてる時間がちょうど私が必要としている時間という事もあって、都合も良く、一緒に外出を多くするようになり、一緒にいてる時間が長くなっていきました。すると、自然と、お互いに気心が知れるようにもなりました。

私は「一生、両手両足が動かない」と知った時に「結婚はしない」と決めました。それは、「幸せにしてあげられない」という事と、私が自分では何もできませんので、私の「介護漬け」になるのがわかっていたからです。「それが申し訳ない。この体の犠牲者は自分だけで充分だ」と考えていたからです。

そんな私が結婚をしようと思ったのは、障害者になって障害者の結婚がとても難しい事を友達のケースを見て、そして人から話を聞いて初めて知ったからです。

誰も障害を持ちたくて持った訳ではありません。それに、体に障害があるというだけで結婚ができないというのは、どうしても納得がいきませんでした。だから、私が「障害者でも結婚できるんだ」というところに道を付ける必要があると思っていました。そして、障害者が簡単に人間らしく生きていけるようになって欲しいという願いでもありました。

出典 京都新聞社会福祉事業団

最後に

清水哲さんは、将来を期待されていた選手でしたが、不慮の事故により、野球ができないどころか、車椅子生活を強いられることになりました。

 

しかし、桑田真澄さんなど多くの友人の支えもあり、現在頑張っています。

 

「消えた天才」で、桑田真澄さんとの交流が語られると思いますので、放送を楽しみに待ちたいと思います。