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カシオ計算機を創立した樫尾四兄弟の三男で、カシオ計算機の代表取締役会長の樫尾和雄(かしおかずお)氏(89歳)が、6月18日午後11時35分に誤嚥性肺炎のため亡くなったそうです。

 

カシオ計算機といえば、G-SHOCKが有名ですよね。

 

G-SHOCK以外にも電卓、時計、電子楽器、電子辞書、デジタルカメラ、オフィス・コンピューターなどを販売する大企業です。

 

そんな大企業のカシオ計算機の礎を作ったのが樫尾四兄弟。

 

今回は、誤嚥性肺炎のため亡くなった樫尾和雄さんに注目しました。

樫尾和雄さんの経歴とカシオ計算機設立

出典 http://healthcare.itmedia.co.jp/

 

樫尾和雄さんは1929年1月9日生まれの89歳。

 

東京都尾久で父・樫尾茂氏、母・キヨノさんの三男として誕生しています。

 

生家は荒川遊園の近くのようです。

 

長男の樫尾忠雄氏は、関東大震災後、東京で働いていた叔父に誘われ、見習い旋盤工として働き始め、働きながら早稲田工手学校(現在の早稲田大学)に通って技術を習得し、樫尾家の大黒柱として樫尾製作所を起こしました。

 

次男の樫尾俊雄氏は、電機学校で弱電を学び、電機学校を卒業後は逓信省(現在のNTT)に入省し、技術者として勤務していましたが、長男の樫尾忠雄氏が起こした樫尾製作所の経営を助けるため、逓信省を退官し、1946年に樫尾製作所に入っています。

 

そして、樫尾和雄さんも後田尋常小学校(現在の荒川区立第七中学校)を経て、日本大学高等師範部英語科を1949年3月に卒業。

 

その後、1946年に長男の樫尾忠雄氏がに東京都三鷹市に設立した樫尾製作所に1950年4月に入社します。

 

そして、四男の樫尾幸雄氏も日本製鋼所を経て、1952年に樫尾製作所に入社し、樫尾四兄弟が揃うことになります。

 

当時下請け仕事が多かった樫尾製作所でしたが、1949年に銀座・松坂屋で開催された「第1回ビジネスショウ」に並んだ輸入物の電動計算機を見た次男の樫尾俊雄氏は衝撃を受け、計算機の将来性を確信し、長男の樫尾忠雄氏に計算機の開発を持ちかけています。

 

樫尾製作所が電動計算機に着手したのは1950年頃でしたが、電動計算機の開発には資金が必要となります。

 

その電動計算機の開発資金となったのが、次男の樫尾俊雄氏が開発した「指輪パイプ」でした。

持ち前の発想力を活かし、俊雄は数々の発明を試みます。そのひとつが「指輪パイプ」でした。戦後間もない当時は物資が不足しており、誰もがたばこを根元ぎりぎりまで吸っていました。そこで俊雄は仕事をしながらでも吸えるように、たばこを差せる指輪型のパイプを考案しました。忠雄が旋盤を駆使して作り、父親の茂が売りに出かけ、やがて徐々に引き合いが増えて、「指輪パイプ」は作るそばから売れるヒット商品になりました。これで得た利益が、後に計算機開発の資金として役立つことになります。

出典 カシオ計算機

 

1956年の暮れに、長年の開発の末に完成した計算機「カシオ14-A」を札幌で発表することが決まりますが、計算機を羽田空港で飛行機に積み込む際に、載せられる大きさの規定オーバーが判明します。

 

係員から頭の部分を取り外すようにいわれた樫尾兄弟はやむなく分解して積み込みますが、札幌に着き、再び組み立てますが、計算機は動かなくなり、発表会は失敗に終わってしまったようです。

しかし、落胆して帰ってきた兄弟のところに、株式会社内田洋行の担当者が「計算機を見せてもらえますか」と訪れてきます。発表会を見た札幌の支店長が「扱ってみてはどうか」と本社に提案していたのです。内田洋行は以前、下請けを樫尾製作所に発注していたことがあり、樫尾兄弟への信頼がありました。七年間の開発の苦労がついに報われたのです。内田洋行を総販売代理店とする契約が交わされ、リレー式計算機の開発・製造会社として、1957(昭和32)年6月、カシオ計算機株式会社が設立されました。社長には兄弟の頼みで、父親の茂が就任することとなりました。

出典 カシオ計算機

 

樫尾和雄さんは、カシオ計算機設立と同時に取締役製作部長に就任。

 

1965年7月、常務取締役 営業本部長に就任。

 

1976年6月、代表取締役専務 営業本部長就任。

 

1986年10月、代表取締役専務 事業総本部長 兼 経営管理本部長に就任。

 

1988年12月、代表取締役社長に就任。

 

2014年5月、代表取締役社長執行役員に就任。

 

2015年6月、代表取締役会長に就任。

 

1994年4月29日に藍綬褒章を受章しています。

樫尾和雄さんについて

樫尾4兄弟の三男である樫尾和雄さんは、営業面で経営手腕を発揮されてきた方です。

 

「仕事も遊びも中途半端では気が済まない」という性格から、趣味のゴルフののめり込み方も半端ではなかったようです。

 

また、勝気な性格と機転が利く方だったようです。

 カシオは57年の設立と同時に内田洋行と総販売代理店契約を結び、リレー式計算機の生産を始めた。出資こそ仰がなかったが、当初は内田洋行の専属工場的な存在だった。高度成長の追い風を受けて事業は順調に拡大していったが、64年に突然、危機が訪れた。内田洋行から「全く売れなくて、製品在庫が倉庫に山のようにたまってしまった」と情報が入った。

販売激減の直接原因はリレー式から電子式への切り替えが遅れたことによるものだったが、その遠因は「当時、経営にゆとりが出たこともあって、兄弟でゴルフに熱中してしまった」ことだ。間もなく、内田洋行から代理店契約解消の申し入れがあり、膨大な在庫を引き取った。代理店頼みの経営が挫折したことで必要になった営業強化の仕事を和雄は自ら買って出た。

時代遅れになったリレー式の在庫はそのままでははけるはずがない。営業の前線に立ってからしばらくして、ある代理店から耳にした意見をもとに、銀行の利息計算専用に改造して大半を売りさばいた。「特殊用途の機械としてもっといい値段で売ったから、かえってもうかった」。兄弟がゴルフに熱中するきっかけを作ったのは和雄なのだが、その後始末も自らつけた。

ただ、出遅れた電子式の開発はなかなか進まなかった。シャープがすでに64年に電子式を発売したのに対し、カシオは依然としてリレー式に頼らざるを得なかった。65年春にそれまでのリレー式に比べて演算速度が5倍でしかも小型の最新鋭機を開発したが、その発表会場に集まった販売店からは「もうそんな時代ではないのではないか」という厳しい意見が続出した。

この会場に弟の幸雄と二人で出席していた和雄はとっさの判断で、まだ開発途中の試作機を披露した。当日、年長の忠雄と俊雄はおらず、試作機も配線がバラバラで、外部に見せられるような代物ではなかった。しかも、電子式を見せることは当日発表したリレー式を否定することでもある。「しょうがないから見せちゃえと勝手に判断したが、代理店は皆、色めき立った」。

幸雄は「あの日の決断がなければ、今のカシオは存在していなかったのではないか」と振り返る。当時、業界内では「電子式の開発に遅れたカシオは危ない」といううわさが流れ始めていた。開発途上であるにせよ、電子式の商品化が近いことを示さなければ、「販売代理店にそっぽを向かれることも十分に考えられた」と言う。

65年秋に電子式を発売した後は「いざなぎ景気」に助けられ、徐々に業績を回復していった。さらに67年からはトーメンの仲介で、米国の事務機器商社であるコモドアと提携、同社へのOEM(相手先ブランドによる生産)供給で対米輸出も始めた。一時はカシオの電子式計算機の生産台数のうち、8割近くをコモドア向けが占めるまでになった。

ところが、輸出を始めて2年後、ふと脳裏に「このままでいいのか」という思いがよぎった。現地での販売をコモドアに頼ったままで大丈夫かという不安と、これだけ売れるなら自社で手掛けられないかという期待である。コモドアへの製品供給があまりに好調だったことが、かつて内田洋行に販売を任せ切りで市場変化への対応が遅れた苦い記憶をよみがえらせた。

兄弟と相談してすぐにトーメンと共同出資で会社を設立、独自の現地販売網を作った。コモドアへのルートも残したが、注文は二度と来なかった。もし、OEM輸出を続けていたら「つぶれていた」と断言する。当時、カシオのほかに電子計算機の専門メーカーは3社あり、それぞれ米国へのOEMで稼いでいたが、顧客ニーズの変化に対応した技術革新に遅れ、やがてすべて姿を消した。

出典 日経ビジネスオンライン

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最後に

カシオ計算機がここまで大きくなったのは、樫尾四兄弟がそれぞれの役割を全うしたことに他ありません。

 

その中でも、樫尾和雄さんは営業面で、その手腕を発揮してきました。

 

樫尾和雄さんには哀悼の意を表したいと思います。

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